今やバラエティ番組で見ない日はないほどブレイクした村重杏奈さん。
明るく天真爛漫なキャラクターで多くの人を魅了する彼女ですが、その生い立ちやブレイクまでの道のりにはどんなエピソードがあるのでしょうか。
日本とロシアのハーフとして生まれ、HKT48での10年間の活動を経て現在の活躍に至るまでの軌跡を詳しく探ってみましょう。
果たして、村重杏奈さんがどんな歩みをしてきたのか、最後まで楽しみに読んでください。
村重杏奈の生い立ち

村重杏奈さんの生い立ちはどのようなものだったのでしょうか。
村重杏奈さんは1998年7月29日、山口県玖珂郡和木町で生まれました。
父親が日本人、母親がロシア人という国際的な家庭で育った彼女は、三姉妹の長女として幼少期を過ごします。
妹のマリアさんとエリカさんも子役として活動していたことからも、芸能の才能は家族に共通していたようです。
特筆すべきは、村重さんの多言語能力です。
家庭内ではロシア語での会話が日常的に行われており、彼女は日本語とロシア語を自然に話すバイリンガルとして成長しました。
この国際的な背景は、後の彼女の活動にも大きな影響を与えることになります。
2011年、当時12歳だった村重さんは、アクターズスクール広島のオーディションでグランプリを獲得。
その後、同年7月10日に13歳でHKT48の1期生オーディションに合格し、アイドルとしての道が始まりました 。
13歳のとき、HKT48のオーディションに合格し1期生となる
引用:Wikipedia
当時の彼女は「自信満々で挑んだ」と後に振り返っており、「秋元先生の目に留まる」という強い意志を持ってオーディションに臨んだそうです。
村重杏奈のブレイクまでのエピソード
村重杏奈さんのブレイクまでのエピソードはどんな内容なのでしょうか。
芸人志望
HKT48での活動期間中、村重さんは「芸人志望」を公言し、バラエティ番組での活躍を目指していました。
レッスン時のTシャツに「芸人志望」と書いたものを着用するなど、その意気込みは本物でした。
2013年には「HKT48のバラエティー班」として中西智代梨さんと共にR-1グランプリにも挑戦しましたが、結果は2回戦敗退という苦い経験も味わいます。
2014年にはNMB48との兼任も経験し、より多くのファンに愛される存在となりました。
しかし、村重さん自身は当時を振り返って「基本的に暇だった」「本当に人気がなかった」と語っており、アイドル時代は思うような活動ができない期間もあったようです 。
10年アイドルやってて、まぁ忙しかった時もありましたけど、基本的には暇だったから
引用:E-TALENTBANK
転機が訪れた
転機が訪れたのは2021年12月のHKT48卒業後でした。
グループでの10年間の活動を終え、新たなスタートを切った村重さんにブレイクのきっかけをもたらしたのが、フジテレビの番組「呼び出し先生タナカ」への出演でした 。
キッカケは、本人もインタビューで話しているが『呼び出し先生タナカ』への出演だ。
引用:女子SPA!
2022年から放送が始まったこの番組で、村重さんは学力テスト企画で最下位を取り、「おバカキャラ」として注目を集めるようになります。
本人は「そんなつもりはなかった」と語っていますが、この天然な魅力がテレビ業界から高く評価され、一気にブレイクへと繋がりました 。
“おバカ”と言われて……そんなつもりはなかったんですけど“あ、おバカなんだ”って(笑)。それで、気づいたらいっぱいテレビに出させてもらっていました」と言います。
引用:audee.jp
現在の活躍
現在では年間104本という圧倒的な出演本数を誇り、バラエティ番組での引っ張りだこ状態となっています 。
昨年同時期の10本から104本増しの114本となり、1カ月平均で19番組に出演する。
引用:サンスポ
また、2025年には映画「悪鬼のウイルス」で初主演を務めるなど、活動の幅を更に広げています。
まとめ
いかがだったでしょうか?
村重杏奈さんの生い立ちからブレイクまでの道のりは、国際的な家庭環境で培われた多様性と、HKT48での10年間の経験が土台となって築かれたものでした。
アイドル時代には思うような結果が出ない時期もありましたが、諦めずに「芸人志望」という夢を追い続けた結果、卒業後に「呼び出し先生タナカ」での「おバカキャラ」がブレイクのきっかけとなりました。
現在の彼女の活躍は、単なる偶然ではなく、長年にわたる努力と持ち前の明るいキャラクター、そして時代が求めるタレント像とのマッチングが生み出した必然的な結果と言えるでしょう。
これからも村重杏奈さんの更なる活躍が期待されます。
それではありがとうございました。
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