松任谷由実の出身地はどこ?生い立ちとブレイクまでのエピソードをリサーチ!

日本の音楽界に燦然と輝く国民的シンガーソングライター、松任谷由実さん。

「ユーミン」の愛称で親しまれ、50年以上にわたって数々の名曲を世に送り出してきました。

しかし、その華やかなキャリアの裏には、一体どのような生い立ちと出身地があったのでしょうか。

今回は、彼女の出身地から始まり、幼少期の生い立ち、そしてブレイクまでの知られざるエピソードを詳しく探っていきます。

果たして、松任谷由実さんはどのような道を辿って来たのでしょうか。

最後まで楽しみに読んでください。

目次

松任谷由実の出身地は?

出典:COCOLO

松任谷由実さんは1954年1月19日、東京都八王子市で生まれました。

出生名荒井 由実
別名荒井 由実(1971年 – 1976年)ユーミン(Yuming)呉田 軽穂
生誕1954年1月19日(71歳)
出身地 日本 東京都八王子市
学歴多摩美術大学

引用:松任谷由実 – Wikipedia

出身地である八王子は、現在でも多摩地区の中心都市として知られていますが、由実さんが生まれた1950年代は、まだ東京の郊外地域という色合いが強い場所でした。

しかし、この地には重要な特徴がありました。

立川基地や横田基地といった米軍基地が近くにあったのです。

由実さんの実家は「荒井呉服店」という老舗の呉服屋でした。

創業94年を誇るこの店は、3男2女の第4子(次女)として由実さんを迎えました。

最盛期には従業員が80人もいたという荒井呉服店は、八王子の名士として知られる存在でした。

店には寮もあり、まさに大家族のような環境で由実さんは育ったのです。

松任谷由実の生い立ち

松任谷由実さんの生い立ちはどのようなものだったのでしょうか。

音楽に包まれた幼少期

由実さんの幼少期は、まさに音楽に囲まれた環境でした。

呉服店で働く若い従業員たちが、ラジオから流れるポップスを聞きながら針を動かし、ミシンを踏む音が店内に響いていました。

幼い由実さんは自然と坂本九や森山加代子のカバー曲、『太陽がいっぱい』『避暑地の出来事』などの映画音楽のメロディを覚えていったのです。

「ゆみすけ」という愛称で呼ばれていた由実さんは、おむつが取れない頃からマンボを踊り、従業員たちから喝采を浴びていました。

まさに「店のアイドル」として愛されて育ったのです。

特殊な家庭環境

由実さんの母・芳枝さんは、高等女学校で英語を学んでいたモダンガールでした。

戦後、進駐軍の将校夫人たちが洋服の生地を持ち込んでオーダーメイドを注文する際、芳枝さんの英語力が店を救いました。

しかし、芳枝さんは家事や育児をすべて家政婦に任せ、自身はPTA活動や趣味の芝居見物に熱中していました。

由実さんの実質的な養育を担ったのは、宮林秀子さんという家政婦でした。

由実さんにとって、秀子さんは「もうひとりの母」のような存在だったのです。

音楽的才能の開花

6歳の6月6日にピアノを始めた由実さんは、習い事が上達するという言い伝えに従って音楽の道に足を踏み入れました。

演奏会のステージに立つと、練習の時とはまったく違う独創的なピアノを弾き、周囲を驚かせました。

小学校高学年から中学までは清元の三味線も習い、勉強も努力せずに常に一番の成績を維持していました。

まさに神童と呼ばれる存在だったのです。

立教女学院時代の転機

1966年4月、由実さんは姉と同じ立教女学院中学校に進学しました。

このミッションスクールでの体験が、彼女の音楽人生を決定づけることになります。

聖マーガレット礼拝堂で聴いたバッハの『トッカータとフーガニ短調』に異常な衝撃を受けた由実さんは、「パイプオルガンは教会全体が楽器。バッハを聴いた瞬間、涙が溢れて止まらなくなった」と後に語っています。

そして運命の出会いが訪れます。

フジテレビの『ビートポップス』で紹介されたプロコル・ハルムの『青い影』を聴いた13歳の由実さんは、「これなら、私にもできるかもしれない」と直感したのです。

早熟な音楽活動

中学時代から、由実さんは港区麻布台のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りするようになりました。

ここは文化人が集まるサロン的存在で、後にアルファレコードが生まれるきっかけの場所でもありました。

14歳頃には、後に「ユーミン」という愛称を付けてくれるC・U・チェン(ザ・フィンガーズのベーシスト)と出会います。

チェンは「この子は必ず有名になる」という意味を込めて「ユーミン」と呼び始めたのです。

近くの米軍基地のPXでレコードを買い漁り、中学2年の終わり頃には100枚を超えるLPを所有していました。

由実さんは「日本一のロック少女」だったかもしれません。

松任谷由実のブレイクまでのエピソード

出典:装苑

松任谷由実さんのブレイクまでのエピソードはあるのでしょうか。

調べてみると、とても興味深いエピソードがありました。

作曲家としてのデビュー

1971年、高校3年生の時に書いたデモテープが採用され、17歳で作曲家としてデビューしました。

元ザ・タイガースの加橋かつみに「愛は突然に…」を提供したのが最初の仕事でした。

由実さん自身は「14歳でプロとして活動を開始」と語っており、16歳でアルファミュージックの専属作家契約第1号となったのです。

歌手デビューと初期の苦闘

1972年7月5日、「返事はいらない」で荒井由実として歌手デビューを果たしました。

しかし、このデビューシングルはわずか300枚しか売れず、後に「幻のデビューシングル」と呼ばれることになります。

プロデューサーの村井邦彦は「歌だってそんなに上手いわけではないし」と評していましたが、作曲の才能は高く評価していました。

当時は多摩美術大学で日本画を専攻する大学1年生でもありました。

転機となった「ひこうき雲」

1973年11月、ファーストアルバム『ひこうき雲』をリリース

このアルバムが由実さんの運命を変えました。

収録曲の多くは高校時代に作られたもので、特にタイトル曲「ひこうき雲」は小学校の同級生が病気で亡くなったことに影響されて生まれた楽曲でした。

同月には、後に夫となる松任谷正隆とのコラボレーションも始まりました。

正隆はキーボード奏者として参加し、3年越しの愛を実らせて1976年11月に結婚することになります。

結婚と名義変更

1976年の結婚を機に松任谷由実に改姓し、同年の4枚目のアルバム「14番目の月」で初のチャート1位を獲得しました。

これ以降、松任谷正隆が全曲のアレンジ、プロデュースを担うようになり、ユーミンサウンドが確立されていったのです。

結婚後、一度は専業主婦になろうと考えたものの、松任谷由実名義で音楽シーンにカムバック。

1981年の「守ってあげたい」で真のブレイクを果たし、国民的シンガーソングライターとしての地位を確立しました。

まとめ

いかがだったでしょうか?

松任谷由実さんの出身地である東京都八王子市の老舗呉服店という特殊な環境が、彼女の音楽的才能を育む土壌となったことがわかりました。

米軍基地が近くにあったことで幼い頃から洋楽に触れ、立教女学院での教会音楽体験、そして文化サロン「キャンティ」での出会いなど、すべてが彼女の音楽人生を形作る重要な要素でした。

デビュー当初は苦戦したものの、持ち前の才能と運命的な出会いにより、日本の音楽史に残る偉大なシンガーソングライターへと成長していったのです。

総売上枚数4,000万枚を突破し、6年代に渡ってアルバムチャートの首位を記録するなど、まさに日本を代表するアーティストとなった松任谷由実さん。

その原点には、八王子の呉服店で育った「ゆみすけ」という少女の純粋な音楽への愛があったのです。

これからも、才能あふれるユーミンサウンドを期待したいですね。

それではありがとうございました。

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