現在、テレビ界の最前線で活躍し続ける有吉弘行さん。
毒舌キャラクターで多数の冠番組を持つ人気タレントですが、彼の原点はどこにあるのでしょうか?
一度は一発屋と言われながらも、見事に復活を遂げた彼の生い立ちやブレイクまでの道のりには、多くの興味深いエピソードが詰まっています。
今回は有吉弘行さんの出身地から幼少期、そして再ブレイクまでの軌跡を詳しく探っていきます。
果たして、有吉弘行さんはどんな道を歩んできたのでしょうか。
最後まで楽しみに読んでください。
有吉弘行の出身地はどこ?

有吉弘行さんの出身地はどこなのでしょうか?
有吉弘行さんは1974年5月31日生まれ、広島県安芸郡熊野町出身です。
有吉弘行 ありよしひろゆき 生年月日 1974年5月31日(51歳) 出身地 広島県安芸郡熊野町 血液型 A型 身長 172 cm
引用:Wikipedia
熊野町は広島県の南東部に位置し、熊野筆で有名な町として知られています。
現在51歳(2025年9月27日時点)の有吉さんは、この田舎町で18歳まで過ごしました。
有吉さんの学歴は以下の通りです:
- 小学校:熊野町立熊野第一小学校
- 中学校:熊野町立熊野東中学校
- 高校:広島県立熊野高等学校(偏差値41)
大学への推薦話もあったそうですが、既に芸人を目指していた有吉さんは進学せず、高校卒業と同時に芸能界を目指すことを決意しました。
興味深いことに、当時の有吉さんの地元では大学進学者が少なく、「大卒の人に会ったのは二十歳を過ぎてから」だったというエピソードもあります。
因みに有吉弘行さんの地元では、周りに大学に進学する人が少なかったらしく、
大卒の人に会ったのは、有吉弘行さんが二十歳を過ぎてからだったそうです!
有吉弘行の生い立ち
有吉弘行さんの生い立ちはどのようなものだったのでしょうか。
調べてみると、次のような生い立ちだったことが判りました。
幼少期の複雑な環境
有吉弘行さんの幼少期は、現在の毒舌キャラクターの原点となる様々な体験に満ちていました。
3歳までは熊野町以外の場所で暮らしており、その頃住んでいたアパートの階下の女性が、幼い有吉さんが走り回る音にイライラして包丁を持って怒鳴り込んでくるという恐ろしい体験をしています。
この出来事が、有吉さんが「人の顔色を窺うようになった」原因の一つだと本人が語っています。
個性的な家庭環境
有吉さんの父親はかなり変わった人物で、「野良猫のボスを気取ってみたり、大量のカブト虫を保有していたり」と、息子から見ても謎行動を取る人だったそうです。
また、「折り紙を覚えて何の意味がある?」という独特な教育方針により、有吉さんは6歳まで幼稚園に通わせてもらえませんでした。
年長クラスから急に幼稚園に入った有吉さんは馴染めず、友達ができないまま小学校へ進学。
さらに、可愛らしい見た目を活かして両親が「女の子のように髪を伸ばした」ことで、クラスメイトから「おかまだ」といじめられるという辛い経験もしました。
芸人を目指すきっかけ
転機は小学3年生のときに訪れます。
有吉さんはこの頃、見た目もカッコよくないのに「面白い」という理由だけでモテている同級生を見て羨ましく思い、「お笑いの方に行っちゃった」と語っています。
「小3の時、同級生の子が小さくてて全然カッコ良くもないのに、面白いからってモテたんですよ」
引用:スポニチ
休み時間に一人で「空想上の動物や妖怪を粘土で作る遊び」をしていたところ、それがクラスで評判になり、徐々にコミュニケーションが取れるようになったという微笑ましいエピソードもあります。
高校時代の特徴的なエピソード
高校時代の有吉さんは既に現在の芸風の片鱗を見せていました。
毎日昼休みに図書室で「週刊朝日」と「サンデー毎日」を読むのを日課とし、後輩から週刊誌の記事について意見を求められると、「何の遠慮もない、最低の差別や悪口を言う」という、今の毒舌芸を彷彿させる行動を取っていたそうです。
部活動では柔道部に所属していましたが、実際は柔道ではなくプロレスがやりたくて入部。顧問もやる気がなく、練習はせずにプロレスごっこをしていたという、いかにも有吉さんらしいエピソードがあります。
有吉弘行のブレイクまでのエピソード
有吉弘行さんのブレイクまでのエピソードはあるのでしょうか。
調べてみると、とても興味深いエピソードがありました。
猿岩石結成とオール巨人への弟子入り
1993年3月、高校在学中に有吉さんは読売テレビの企画「公開弟子審査会」に合格し、オール巨人に弟子入りしました。
しかし、兄弟弟子との喧嘩で相手に怪我を負わせてしまい、8か月目にして謹慎を言い渡され、そのまま無断で師匠の下を離れることになります。
1994年、地元の同級生だった森脇和成を誘ってコンビ『猿岩石』を結成し、2人で上京。
1995年に太田プロダクションの新人オーディションに合格してデビューを果たします。
電波少年での大ブレイク
1996年、『進め!電波少年』での「ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅」企画が話題を呼び、猿岩石は一躍時の人となります。
デビューシングル『白い雲のように』はお笑い芸人としては異例の累計150万枚のミリオンセラーを記録しました。
1996年、『進め!電波少年』でのヒッチハイクの旅企画が話題を呼び、デビューシングル『白い雲のように』が、お笑い芸人としては異例の累計150万枚
引用:Wikipedia
転落の時代
しかし、帰国後はCDや著書は売れたものの、肝心のお笑いで結果を残せず、程なくして人気は低迷。
有吉さん本人も「天狗になっており、あまり人に好かれていなかった」と振り返っています。
その後7~8年間、広島のローカル局以外は仕事がなく、経済的に自活もできない状態が続きました。
食事なども上島竜兵(ダチョウ倶楽部)らの世話になっていたという、どん底の時期を経験します。
復活への足掛かり
2004年に猿岩石を解散し、ピン芸人として活動を開始。
この頃から『内村プロデュース』(テレビ朝日)への出演が復活への足掛かりとなりました。
有吉さんは「内Pで再デビュー」という気持ちで臨んでいたそうです。
「おしゃクソ事変」で再ブレイク
そして2007年、運命の瞬間が訪れます。
『アメトーーク!』で品川庄司の品川祐に「おしゃべりクソ野郎」というあだ名をつけたところ、これが大爆笑を呼び、いわゆる「おしゃクソ事変」が発生しました。
有吉さん本人も「久々に爆笑という感覚を味わった」と語るこの出来事をきっかけに、あだ名および毒舌芸人として人気を得ることとなり、見事な復活を遂げたのです。
まとめ
いかがだったでしょうか。
有吉弘行さんの人生は、広島県熊野町という田舎町から始まり、一度は頂点を極めながらも転落を経験し、最終的に独自のキャラクターで復活を遂げるという、まさにドラマのような軌跡を描いています。
幼少期の複雑な家庭環境や学生時代のエピソードが、現在の毒舌キャラクターの基礎を形成し、猿岩石での成功と挫折を経て、最終的に「有吉弘行」という唯一無二の芸人として確立されました。
現在では地上波全局にレギュラー冠番組を持つという快挙を達成し、テレビ界の最前線で活躍し続けています。
彼の成功の裏には、決して順風満帆ではなかった過去があり、それゆえに多くの人々に愛され続けているのかもしれません。
有吉弘行さんの物語は、一度失敗しても諦めずに自分らしさを貫き通すことの大切さを教えてくれる、現代のサクセスストーリーと言えるでしょう。
今後も有吉さんの活躍から目が離せませんね。
それではありがとうございました。
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