日本を代表するシンガーソングライター、竹内まりやさん。
「プラスティック・ラブ」や「元気を出して」などの名曲で知られる彼女は、夫の山下達郎さんとともに日本の音楽シーンに大きな足跡を残してきました。
優しく温かな歌声で多くの人々を魅了し続ける竹内まりやさんですが、彼女のルーツや生い立ち、そして知られざるエピソードには、多くの興味深い物語が隠されています。
今回は、竹内まりやさんの出身地から現在に至るまでの道のり、そして心温まるエピソードを詳しくご紹介します。
果たして、竹内まりやさんはどのような道を歩んできたのでしょうか。
最後まで楽しみに読んでください。
竹内まりやの出身地はどこ?

竹内まりやさんの出身地はどこなのでしょうか?
竹内まりやさんは、1955年3月20日に島根県簸川郡大社町杵築南(現在の出雲市大社町杵築南)で生まれました。
引用:Wikipedia
出雲大社のすぐ近くという、日本有数のパワースポットとも言える神聖な場所が彼女の故郷です。
老舗旅館「竹野屋旅館」が実家
竹内まりやさんの実家は、出雲大社の二の鳥居から100メートルほどの参道沿いにある「竹野屋旅館」です。
この旅館は明治10年(1877年)創業という145年以上の歴史を持つ老舗で、現在も営業を続けています。
父親は4代目竹内繁蔵で、旅館経営者として地域に貢献し、後には大社町の町長も務めた人物でした。
昭和46年(1971年)より15年間に渡り大社町長を務めた四代目が、敷地西側に新館を増築。その頃、出雲大社をご参拝される皇室の方々をお迎えする光栄にも幾度か恵まれました。
(尚、シンガーソングライターの竹内まりやは四代目繁藏の三女にあたります)引用:竹野屋旅館公式サイト
神聖な雰囲気の中で育った幼少期
出雲大社という日本屈指の神社のすぐそばで育った竹内まりやさん。
参拝客が訪れる旅館という環境で、多くの人々との出会いや、歴史と伝統を肌で感じながら幼少期を過ごしました。
この神聖で温かな雰囲気が、彼女の人柄や音楽性に影響を与えたことは想像に難くありません。
竹内まりやの生い立ちから現在までの道のり
竹内まりやさんは現在に至るまでどのような道を歩んできたのでしょうか。
調べてみると、次のような道のりであることが判りました。
幼少期からピアノに親しむ
竹内まりやさんは幼い頃からピアノを習い、音楽に親しんで育ちました。
旅館という人の出入りが多い環境で育ったことも、彼女の表現力や感受性を豊かにしたと考えられます。
高校時代のアメリカ留学体験
1972年、高校3年生の時に、AFS交換留学生としてアメリカ・イリノイ州のロックフォールズ・タウンシップ・ハイスクールに留学しました。
1972年高校3年の時、AFS交換留学生として、アメリカ・イリノイ州 ロックフォールズ・タウンシップ・ハイスクールに留学。
引用:竹内まりや公式サイト
この経験は、彼女の英語力だけでなく、音楽的な視野を大きく広げる貴重な機会となりました。
洋楽に触れ、アメリカの文化を肌で感じた経験は、後のシティポップという音楽スタイルに大きな影響を与えることになります。
慶應大学での音楽サークル活動
1974年、慶應義塾大学文学部英米文学専攻に入学した竹内まりやさんは、音楽サークル「リアルマッコイズ」に参加。
ここでの活動が、彼女の音楽人生における重要なターニングポイントとなりました。
サークルの先輩だった杉真理さんのレコーディングに参加したことがきっかけで、音楽業界との接点が生まれます。
1978年、23歳でデビュー
1978年11月、シングル「戻っておいで・私の時間」とアルバム『BEGINNING』で歌手デビューを果たしました。
大学在学中のデビューで、当時は学生歌手として注目を集めました。
翌1979年には「September」をリリースし、第21回日本レコード大賞新人賞を受賞。
一躍スターの座へと駆け上がります。
1978年11月、シングル「戻っておいで・私の時間」でデビュー。「September」「不思議なピーチパイ」などがヒット。
結婚と「シンガーソング専業主婦」としての活動
1982年、27歳の時に山下達郎さんと結婚。
結婚後は一時表舞台から離れ、家庭を大切にしながら作詞・作曲家として活動しました。
中山美穂の「元気を出して」、中森明菜の「駅」など、多くのヒット曲を他のアーティストに提供。
この時期、「シンガーソング専業主婦」という肩書きで活動しましたが、これは夫の山下達郎さんが考えた呼び方だそうです。
1984年、シンガーとして本格復帰
1984年に自らのシンガーとしての活動を再開。
「プラスティック・ラブ」をはじめとする数々の名曲を発表し続けています。
2000年代以降も「人生の扉」「いのちの歌」など、心に響く楽曲を世に送り出し、現在も第一線で活躍する日本を代表するシンガーソングライターとして、多くのファンに愛され続けています。
竹内まりやの興味深いエピソード
竹内まりやさんの興味深いエピソードはあるのでしょうか。
調べてみると、とても興味深いエピソードがありました。
山下達郎との出会いは「最悪」だった?
竹内まりやさんと山下達郎さんの最初の出会いは、実はあまり良い印象ではなかったそうです。
竹内まりやさんがデビューすることになって、山下達郎さんのところに挨拶に来たときに、サインしてくださいとサイン帳を差し出したところ、「これからデビューするのに同業者にサインをねだるもんじゃない。」とたしなめられたそうです。
その時、竹内まりやさんは「ヤなヤツ~!」と思ったというエピソードがあります。
しかし、その後スタジオで一緒に仕事をする中で、達郎さんの音楽に対する真摯な姿勢や才能を知り、徐々に印象が変わっていったそうです。
40年以上続く深い夫婦の絆
1982年に結婚してから40年以上が経過した現在も、二人の絆は深く強いものです。
竹内まりやさんは、普段の会話で山下達郎さんの話し方に似てくることもあるそうで、「昔は『おっとりしゃべる』って言われていたのに」と笑いながら語っています。
また、竹内まりやさんは達郎さんについて「本気で音楽界の人間国宝だと思っている」と語り、達郎さんへの深い尊敬の念を隠しません。
夫婦でありながら、互いにプロフェッショナルとして尊重し合う関係性が、二人の長年のパートナーシップを支えているのでしょう。
「プラスティック・ラブ」のアレンジは達郎の力
竹内まりやさんの代表曲として世界的に再評価されている「プラスティック・ラブ」(1984年)。
この曲について、まりやさんは「凄くいい形でアレンジをしてくれたので。あのアレンジの力も大きいと思いますね」と、夫・山下達郎さんのアレンジ力を高く評価しています。
竹内は名曲「プラスティック・ラブ」(1984年)について、「凄くいい形でアレンジをしてくれたので。あのアレンジの力も大きいと思いますね」と山下に感謝。
引用:スポーツニッポン
近年、この曲はシティポップブームの象徴として海外でも大きな注目を集め、YouTubeでの再生回数は数千万回を超えています。
夫婦のコラボレーションが生んだ名曲が、時代を超えて世界中で愛されているのです。
実家の旅館を守るために尽力
2017年頃、実家の竹野屋旅館が経営上の問題に直面した際、竹内まりやさんは「廃業はイヤ!」と強い意志を示し、旅館を守るために尽力したと報じられています。
140年以上続く老舗旅館を次世代に繋げたいという思いから、コンサルティング会社を入れるなど様々な努力を重ね、現在も竹野屋旅館は営業を続けています。
当初は廃業案や売却案もあったのですが、結果的にみんなで資金を出し合って継続することになったんです。きょうだいの中でも比較的資金力のあったまりやが、オーナーになったわけです
引用:女性自身
多くのファンが「竹内まりやさんの実家」として訪れ、出雲大社参拝と合わせて宿泊する人気の旅館となっています。
「年忘れ夫婦放談」と「納涼夫婦放談」
山下達郎さんのラジオ番組「サンデーソングブック」では、毎年恒例となっている竹内まりやさんをゲストに迎えた「年忘れ夫婦放談」と「納涼夫婦放談」が人気コーナーとなっています。
この番組では、二人の音楽談義や日常のエピソード、他のアーティストへの思いなどが語られ、普段は見られない夫婦の素顔を垣間見ることができます。
リスナーからは「二人の会話が心地よい」「音楽愛が伝わってくる」と好評を博しています。
「残り時間」をリアルに意識して
2024年のインタビューで、竹内まりやさんは「65歳を過ぎ〈残り時間〉をリアルに意識した」と語っています。
27歳で結婚して以来、家事や育児を楽しみながら自分のペースで音楽活動を続けてこられたのも、周りのスタッフと達郎さんの理解があったからこそと感謝の気持ちを述べています。
27歳で結婚して以来、家事や育児を楽しみながら、自分のペースを守って音楽活動を続けてこられたのも、それを許してくれたまわりのスタッフと、達郎の理解と協力があってこそ。
引用:婦人公論
年齢を重ねても、音楽への情熱を失わず、むしろ深みを増した歌声で多くの人々を魅了し続けています。
まとめ
いかがだったでしょうか。
竹内まりやさんは、島根県出雲市大社町という神聖な土地で生まれ、老舗旅館「竹野屋旅館」で育ちました。
高校時代のアメリカ留学、慶應大学での音楽活動を経て、1978年にデビュー。1979年には日本レコード大賞新人賞を受賞し、スターの座へと駆け上がります。
1982年に山下達郎さんと結婚後は、家庭を大切にしながら「シンガーソング専業主婦」として活動。他のアーティストへの楽曲提供で数々のヒット曲を生み出し、1984年にはシンガーとして本格復帰しました。
代表曲「プラスティック・ラブ」は、近年世界的に再評価されています。
夫婦の絆は40年以上経った今も深く、互いにプロフェッショナルとして尊重し合う関係性が素晴らしいですね。
実家の旅館を守るために尽力したエピソードや、ラジオでの夫婦放談など、音楽だけでなく人間性も魅力的な竹内まりやさん。
70歳を目前にした現在も、第一線で活躍し続ける彼女の音楽は、これからも多くの人々の心に響き続けることでしょう。
出雲大社という神聖な地で生まれ、温かな家庭環境で育った竹内まりやさんの優しく包み込むような歌声は、彼女のルーツそのものなのかもしれません。
それではありがとうございました。

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