吉永小百合の出身地はどこ?生い立ちと今日までの興味深いエピソードをリサーチ!

昭和から令和まで、80歳を迎えた現在も第一線で活躍し続ける日本映画界の至宝・吉永小百合さん。

「サユリスト」と呼ばれる熱烈なファンを持ち、清純派女優としてデビューして以来、120本以上の映画に出演してきました。

紫綬褒章の受章、文化功労者への選出など、その功績は日本映画史に深く刻まれています。

本記事では、そんな吉永小百合さんの出身地から生い立ち、そして今日まで続く興味深いエピソードをリサーチしてご紹介します。

果たして、吉永小百合さんはどのような道を歩んできたのでしょうか。

最後まで楽しみに読んでください。

目次

吉永小百合の出身地はどこ?

出典:PR TIMES

吉永小百合さんの出身地はどこなのでしょうか?

吉永小百合さんは、1945年(昭和20年)3月13日、東京都渋谷区代々木西原町で生まれました。

終戦の年である昭和20年に誕生したことは、後に彼女が反戦・平和活動に力を注ぐ原点となっています。

父は薩摩士族の末裔

吉永さんの父・吉永芳之氏は鹿児島県出身で、1910年に薩摩士族の末裔として生まれました。

旧制七高から東京大学法学部法律学科を卒業し、外務省嘱託や出版社経営など、エリートとしてのキャリアを歩んだ人物です。

母方の実家は上流階級の家柄だったといわれています。

地元の学校で過ごした少女時代

渋谷区立西原小学校、渋谷区立代々木中学校、そして東京都立駒場高等学校へと進学し、東京・渋谷の地で少女時代を過ごしました。

ただし、芸能活動が多忙を極めたため、高校は中退。後に大学入学資格検定に挑戦し、早稲田大学第二文学部西洋史学専修に入学、1969年には卒業を果たしています。


吉永小百合の生い立ち

出典:jp.pinterest.com

吉永小百合さんの生い立ちはどのようなものだったのでしょうか。

調べてみると、次のような生い立ちであることが判りました。

裕福ではなかった幼少期

一見、華やかに見える吉永さんですが、少女時代は決して裕福な環境ではありませんでした。

父親の事業の失敗により、家の米びつに1粒も米がないという苦しい時期もあったといいます。

この経験が、後の女優としての演技の深みや、人々への共感力につながったのかもしれません。

小学6年生でラジオドラマデビュー

芸能界入りのきっかけは、1957年、渋谷区立西原小学校6年生の時でした。

ラジオドラマ『赤胴鈴之助』でデビューを果たし、同年10月にはラジオ東京制作のテレビドラマでもテレビデビュー。

家族の薦めや周囲の期待があったものの、本人が積極的に芸能界を志したわけではなかったそうです。

映画デビューと「キューポラのある街」

1959年、14歳の時に松竹映画『朝を呼ぶ口笛』で映画デビュー

そして1960年には日活撮影所に入社し、本格的な映画女優としての道を歩み始めます。

転機となったのは1962年の『キューポラのある街』でした。

浦山桐郎監督のこの作品でヒロインに抜擢された吉永さんは、わずか17歳でブルーリボン賞主演女優賞を受賞

これは2012年時点で史上最年少記録となっており、一躍トップ女優の仲間入りを果たしました。

「サユリスト」旋風と多忙な日々

1960年代は吉永小百合の黄金期でした。

10年間で70本以上の映画に出演し、清純派女優として絶大な人気を誇りました。

彼女のファンは「サユリスト」と呼ばれ、社会現象にもなりました。

同時に歌手としても活躍し、橋幸夫とのデュエット曲『いつでも夢を』は第4回日本レコード大賞を受賞しています。

高倉健との共演が女優人生の転機に

デビュー当初は芝居に苦手意識を持っていたという吉永さん。

しかし、後に高倉健さんとの共演が女優人生の大きな転機になったと語っています。

20代では休養期間を取り、「普通の生活」を経験したことも、女優としての幅を広げるきっかけとなりました。


吉永小百合の今日までの興味深いエピソード

出典:Yahoo!ニュース

吉永小百合さんの今日までの興味深いエピソードはあるのでしょうか。

調べてみると、とても興味深いエピソードがありました。

原爆詩の朗読活動:39年間のライフワーク

吉永さんの人生を語る上で欠かせないのが、原爆詩の朗読活動です。

1986年から始めたこの活動は、2025年現在も続くライフワークとなっています。

きっかけは1984年のNHKドラマ『夢千代日記』への出演でした。

被爆者の役を演じたことで、原爆や戦争について深く考えるようになり、広島や長崎をはじめ、日本全国、さらにはアメリカやイギリスでも朗読会を行ってきました。

終戦の年に生まれた吉永さんにとって、平和への祈りは特別な意味を持っています。

2025年には被爆80年を迎える広島で「広島への思い」と題した朗読会を開催。

「これからが大切」と語り、核なき世界への願いを粘り強く訴え続けています。

「家出婚」と夫・岡田太郎との絆

1973年、28歳の時に吉永さんはフジテレビディレクターの岡田太郎氏と結婚しました。

両親の反対を押し切っての結婚だったため、「家出婚」とも言われています。

吉永さんは「彼と結婚していなければ女優を引退していた」と語っており、夫は彼女の俳優人生を延命させた最愛の人でした。

岡田氏は後に共同テレビで社長、会長を歴任。

2024年9月3日、94歳で亡くなるまで、51年間にわたる夫婦の絆を大切にしてきました。

子どもは持たないという選択をした吉永さん。

20代の頃から「ぼんやりと、自分は子どもを持たないだろう」と予感していたといい、女優としての仕事に全力を注ぐ道を選びました。

80歳で挑んだ「人生初」のピアス

2025年、80歳を迎えた吉永さんは、東京国際映画祭で人生初のピアスを着けて登場し、話題となりました。

長年、「ピアスは開けない」と決めていた彼女が、新しい挑戦をしたことについて「不思議なことに自由な気持ちに」なったと語っています。

日本の女性俳優として初めて東京国際映画祭の「特別功労賞」を受賞した吉永さん。

日本アカデミー賞では史上最多となる「最優秀主演女優賞」を4度受賞するなど、その実績は枝挙にいとまがありません。

「八合目」と語る現在の心境

2025年のインタビューで、吉永さんは自身の俳優人生を「いま八合目」と表現しています。

80歳を迎えてもなお、山の頂上を目指して歩み続ける姿勢は、多くの人々に勇気と感動を与えています。

2023年公開の映画『こんにちは、母さん』では、山田洋次監督とタッグを組み、がんで余命3カ月と診断されながらも前向きに生きる主人公を演じました。

この作品で23年ぶり3度目のブルーリボン賞主演女優賞を受賞し、令和の時代にも新たな伝説を刻んでいます。

和装の美しさと「人を先にする心」

東京国際映画祭での和装姿も話題になった吉永さん。

その美しさの根本には「情(人を先にする心)」があると評されています。

テレビ番組『まつもtoなかい』での振る舞いからも、常に相手を思いやり、謙虚な姿勢を貫く人柄が伝わってきます。


まとめ

いかがだったでしょうか。

吉永小百合さんは、東京都渋谷区で終戦の年に生まれ、決して裕福ではない幼少期を過ごしながらも、小学6年生でデビュー。

17歳でブルーリボン賞を受賞し、一躍トップ女優の座に駆け上がりました。

1960年代の「サユリスト」旋風から、原爆詩の朗読活動という社会的使命、そして最愛の夫との51年間の絆まで、その人生は映画そのもののように波乱万丈でありながらも、一貫して誠実さと美しさに満ちています。

80歳を迎えた今も「八合目」と語り、新たな挑戦を続ける吉永小百合さん。

日本映画界の至宝として、そして平和を願い続ける一人の人間として、彼女の輝きはこれからも私たちの心を照らし続けることでしょう。

それではありがとうございました。

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