原田泰造の若い時はどんな感じ?学生時代からブレイクまでのエピソードをリサーチ!

今回は、お笑いトリオ「ネプチューン」のメンバーであり、俳優としても活躍している原田泰造さんですが、原田泰造さんの若い頃の様子が気になりますよね。

学生時代から芸人としてブレイクするまでの興味深いエピソードはあるのでしょうか。

そこで今回はテレビでおなじみの彼が、どのような少年時代を過ごし、芸能界へと足を踏み入れていったのか、その成功までのエピソードををご紹介します。

果たしてどんなエピソードがあるのか楽しみに読んでください。

目次

原田泰造の学生時代のエピソード

出典:ORICON NEWS

原田泰造さんの若い頃はどんな様子だったのでしょうか。

原田泰造さんは1970年3月24日に広島県広島市で生まれました。

1970年3月24日、父親の故郷である広島市で生まれた

引用:ウィキペディア

彼の人生は転勤族のお父さんの影響で、幼少期から様々な場所で過ごすことになります。

3歳までは広島で育ち、その後は父親の仕事の都合で小学1年生までは北海道札幌市に、小学5年生までは東京都狛江市、小学6年生以降は立川市で育ち、最終的に東村山市へと移り住んでいます。

学生時代の原田さんは、東村山市立回田小学校、東村山市立東村山第四中学校、そして東京都立農芸高等学校の食品科学科(偏差値45)を卒業しています。

高校での専攻は食品科学でしたが、すでにこの頃から「何でもいいからテレビに出たい」という強い思いを抱いていたそうです。

中学時代のエピソードとしては、彼はジャッキー・チェンの映画が大好きで、友人の家では「スーツパーティー」と呼ばれる集まりを開催するなど、当時から目立つことを好む性格だったようです。

「子供の頃のヒーローはブルース・リーにジャッキー・チェン。父と一緒に映画館で見た銀幕のスターにずっと憧れていました」

引用:産経新聞

また、中学3年生の時には部員不足だった卓球部に入部するという一面も。

幼い頃からテレビに出たいという夢を持ち、目立ちたがり屋だったため学級委員も務めていたそうです。

ちなみに、原田さんの実家は「ランチショップたきたて」というお弁当屋を埼玉県所沢市で営んでいました。

彼が芸能界入りする前も、このお弁当屋で働いていたことがあり、後にネプチューンを結成した後も、番組で話題にされることがあったようです。

出典:有名人の学歴や有名人の高校・大学情報は芸能人有名人学歴偏差値.com

原田泰造の若い時から下積み時代のエピソード

原田泰造さんの若い時から下積み時代のエピソードはあるのでしょうか。

高校卒業後、原田さんは俳優志望だったものの、「何でもいいからテレビに出たい」という思いから、モデルや俳優などのオーディションに応募していました。

入会金を払えば、エキストラの仕事をさせてくれる、まあ、劇団みたいなところ。演技の勉強がしたかったというよりは、何でもいいからテレビに出たかったんです。

引用:リクナビNEXT

1990年、高校時代の友人を誘い「パープルン」というコンビを結成し、お笑いの道へと進みます。

出典:レジュメディア

コンビ名の由来は、当時のアルバイト先だった居酒屋「村さ来」からとったもの。ちなみに、この居酒屋で現在の奥さんと出会い、後に結婚することになります。

パープルンは渡辺プロダクションのオーディションで合格し、活動を始めますが、相方の借金が原因ですぐに解散してしまいます。

その後、新しい相方を探していた時に、同じオーディションを受けていた堀内健さんに目を留め、自ら声をかけて1991年に「フローレンス」を結成します。

出典:レジュメディア

コンビ名は東京都小平市にあるラブホテルから命名したそうです。

しかし、原田さんも堀内さんもボケのポジションだったため、ツッコミ不在でカオスな状態に。

そこで1993年に、コンビを解散してピンで活動していた先輩の名倉潤さんに「ツッコミをお願いしたい」と頼み、名倉さんが加入して現在の「ネプチューン」が誕生しました。

出典:SponichiAnnex

下積み時代のエピソードとしては、1995年に現在の奥さんを妊娠させてしまい、結婚することになりました。

当時はお金もなく、ネプチューンを脱退して真面目に働くことも考えたそうですが、メンバーや奥さん、義母からの温かい言葉に救われ、芸能界を続けることができたとのこと。

さらに、下積み時代には時代劇での死体役やギャラが1回5,000円ほどの仕事もこなしながら、コツコツと経験を積んでいったようです。

原田泰造のブレイク時のエピソード

出典:Yahooニュース

原田泰造さんのブレイクはどんなきっかけからでしょうか。

ネプチューンとしての本格的なブレイクは、1990年代に一世を風靡したバラエティ番組『タモリのSuperボキャブラ天国』(フジテレビ系)への出演がきっかけでした。

しかし、翌月に「ボキャブラ天国」に出演。「そしたら今度、人が集まりすぎて“すいません、帰ってください”って」と、一気に人気が急上昇したと語っていた。

引用:SponichiAnnex

番組内でのホスト「アキラ」シリーズや、原田さんのルックスと「俺様キャラ」が視聴者の人気を博しました。

特に『ボキャブラ天国』出演前後での変化は劇的だったようです。

原田さん自身が語るところによると、出演前は営業に行っても客が集まらず「3回公演のところ1回にしましょう」と中止になることもあったそうですが、番組出演後は「人が集まりすぎて回数を増やす」ほどの人気に急上昇したとのこと。

また、1995年にはドラマ『ママに宿題』で俳優デビューを果たし、1998年にはネプチューン初主演映画「どつきどつかれ」で主人公のリイチ役を演じました。

その後、2000年に『編集王』(フジテレビ)でテレビドラマで単独初主演を務めるなど、俳優としてのキャリアも順調に歩み始めます。

俳優としてのブレイクのきっかけは、テレビ朝日系『笑う犬の生活』でのコント経験だったようです。

思い返すと、『笑う犬の生活』、あれは大きかったですね。あそこでやらせていただいたコントのおかげという面もあると思います」

引用:Yahooニュース

原田さん自身が「お笑いで芝居をやってたから…『笑う犬の生活』は大きかったですね」と語っているように、コントで培った演技力が後の俳優業に大きく活かされたようです。

特に、NHKの連続テレビ小説『ごちそうさん』大河ドラマ『篤姫』『龍馬伝』などの出演を通じて、俳優としての評価も高まりました。

コメディからシリアスな作品まで幅広く演じられる俳優として、現在も多方面で活躍しています。

まとめ

いかがだったでしょうか。

原田泰造さんの若い頃から現在までの道のりを振り返ると、「何でもいいからテレビに出たい」という純粋な思いが彼を芸能界へと導き、その後の努力と周囲の支えによって今日の活躍につながっていることがわかります。

学生時代から目立つことを好み、夢を追い続けた原田さん。

お笑いトリオ「ネプチューン」としてのブレイクから、俳優としても高い評価を得るまでの彼の歩みは、夢を持ち続けることの大切さを教えてくれます。

現在では「お父さん役」も多く演じるようになり、さらには連続テレビ小説や大河ドラマにも出演するなど、日本を代表する俳優の一人として確固たる地位を築いています。

そんな彼の背景には、若い頃からの挫折や苦労、そして周囲の人々の温かい支えがあったことを忘れてはならないでしょう。

原田泰造さんの今後の活躍にも、引き続き注目していきたいですね。

それではありがとうございました。

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