現在日本を代表する実力派俳優として活躍している藤原竜也さん。
『バトル・ロワイアル』や『デスノート』、『カイジ』シリーズなど数々の話題作で印象的な演技を見せ、観る者を魅了し続けています。
そんな藤原竜也さんの出身地や生い立ち、そして俳優としてブレイクするまでのエピソードを詳しく調べてみました。
果たして、藤原竜也はどんな道を歩んでブレイクしたのでしょうか。
最後まで楽しみに読んでください。
藤原竜也の出身地は?

藤原竜也さんの出身地はどこなのでしょうか。
藤原竜也さんの出身地は埼玉県秩父市です。
1982年5月15日に秩父市で生まれ、地元で育ちました。
身長178cm、血液型A型で、現在はホリプロに所属しています。
引用:Wikipedia
「竜也」という名前は、祖父の「天に昇る竜の如くすくすくと育つように」という願いを込めて命名されたそうです。
まさにその名前の通り、天に昇る竜のように芸能界での地位を築いていったのは運命的とも言えるでしょう。
秩父という自然豊かな環境で育った藤原さんは、地元では「秩父の悪魔」と呼ばれるほどやんちゃな少年だったという話もあります。
藤原竜也の生い立ち
富士銀行さんの生い立ちはどのようなものでしょうか。
まず、家族構成から見ていきましょう。
家族構成
- 父親:単身赴任が多いサラリーマンで、ほとんど家にいなかった
- 母親:秩父で飲食店を経営。藤原さんの顔は母親似
- 兄:「かーくん」と呼ばれる3歳上の兄
- 姉:詳細は非公開
11歳の時に姪が生まれ、若くして叔父になったそうです。
幼少期
藤原さんの幼少期は、ヤンチャでいたずら好きな男児でした。
大嫌いな納豆が食卓に出ると、窓から外に捨てていたという可愛らしいエピソードも。
この頃はタコが大好きで、「タコのたっちゃん」と呼ばれるほどタコを食べていたそうです。
コロコロコミックの投稿コーナーで何度か入賞したり、兄の影響でプロレスが好きになったりと、活発な少年でした。
小学時代
小学2年生になると三浦知良選手に憧れてサッカーを始めた藤原さん。ポジションはMF(ミッドフィールダー)を務めていました。
中学時代
中学に進学してもサッカーを続け、今度はFW(フォワード)としてプレー。カーブがかかるボールを蹴ることができ、埼玉県大会ベスト4という好成績を残しました。
しかし、「ボールは俺のもの」という意識が強く、味方にパスを全くしない自分勝手な選手だったため、コーチからポジションを交代させられたこともあったそうです。
勉強は嫌いで、給食を食べる目的で登校し、それ以外は学校を抜け出してコンビニに行ったりしていました。
担任のアリガ先生としょっちゅう本気でケンカをしているうちに仲良くなったというエピソードもあります。
中学2年生の時には初恋も経験。音楽コンクールで知り合った他校の女子と交際しましたが、6股をかけられていることが発覚してすぐに別れたという、ちょっと切ないエピソードもありました。
藤原竜也のブレイクまでのエピソード
ところで。藤原竜也さんのブレイクまでのエピソードはあるのでしょうか。
調べてみると、とても興味深いエピソードがありました。
運命的なスカウト
藤原竜也さんの人生を変えたのは、中学2年生の14歳の時に起こった偶然の出来事でした。
池袋東口でカラーギャングの大抗争があることを耳にした藤原さんは、仲間たちと池袋まで2時間かけて観戦しに行きました。
その帰り道、池袋の街角でホリプロ入社3年目の女性社員にスカウトされたのです。
この女性社員から「身毒丸」の主役オーディションのチラシを渡されたことが、藤原竜也の俳優人生の始まりでした。
奇跡のオーディション合格
応募総数5537名という激戦の「身毒丸」主役オーディション。実は藤原さんは第1次書類選考の段階で落とされていました。
しかし、蜷川組のスタッフ一人が何度も各選考の合格書類に紛れ込ませ、選考を通過させたという運命的な出来事が起こりました。
最終審査で蜷川幸雄氏の面接と演技テストを受けた藤原さん。
そのダメ出しに対する反応の良さと、何の色にも染まっていない演技に選考委員9名全員の票が集まり、見事グランプリに選ばれました。
演技の経験も興味もまったくなかった少年が、いきなりグランプリに選ばれてしまったのです。
演技の経験も興味もまったくなかった少年が、5000人を超える応募者の中からいきなりグランプリに選ばれてしまったのだ。
引用:moviewalker
学校の先生たちが喜んだ合格
所属事務所のホリプロ社員が学校に「藤原竜也を預かることになりました」と挨拶に行った際、それを聞いた先生全員が「どうぞ!どうぞ!ありがとうございました!」と大喜びだったそうです。
それほど学校では問題児扱いされていた藤原さんでしたが、この出来事が彼の人生を大きく変えることになりました。
15歳での衝撃デビュー
1997年、15歳で舞台「身毒丸」の主演でデビューした藤原竜也さん。
蜷川幸雄氏の演技指導は非常に厳しく、藤原さんは地獄のような稽古に何度も泣き、「やめたい」と思いながらも必死に食らいついていきました。
結果、上演した舞台は大好評。ロンドンのバービカン・センターでの公演では、「15歳で初舞台とは思えぬ存在感で天才新人現る」と絶賛され、センセーショナルなデビューを飾りました。
高校はわずか4日で退学
堀越高校に進学した藤原さんでしたが、わずか4日で退学しています。
4日目の下校中に稽古場に遊びに行った際、蜷川幸雄氏と唐十郎氏の雑談を聞いて衝撃を受けました。
その雑談は小説を読んでいるような高貴な言葉の連続で、自分が学ぶべき場所は学校ではなく稽古場だと思ったことで即退学を決意したのです。
映画界での大ブレイク
舞台での成功の後、2000年に18歳で深作欣二監督の『バトル・ロワイアル』の主演に抜擢されました。
同作は”20世紀最後の問題作”と言われた傑作で、藤原さんの演技は高く評価され、第24回日本アカデミー賞の優秀主演男優賞と新人俳優賞を受賞しました。
その後、2006年の『デスノート』、2009年の『カイジ 人生逆転ゲーム』など、次々と社会現象になるような作品に出演し、不動の人気俳優となりました。
まとめ
いかがだったでしょうか。
埼玉県秩父市出身の藤原竜也さんは、「秩父の悪魔」と呼ばれるほどやんちゃな少年でしたが、14歳の時の偶然のスカウトが人生を大きく変えました。
演技経験ゼロから5537名の中でグランプリを獲得し、15歳で衝撃的なデビューを飾った藤原さん。
蜷川幸雄氏との出会いと厳しい指導が、現在の確かな演技力の基盤となっています。
高校をわずか4日で退学するという大胆な決断も、自分の信念に従った結果でした。
舞台で培った表現力を映画でも発揮し、『バトル・ロワイアル』『デスノート』『カイジ』シリーズなど、数々の話題作で印象的な演技を見せ続けています。
天に昇る竜のように成長してほしいという祖父の願いは、まさに現実となったと言えるでしょう。
これからも藤原竜也さんの更なる活躍が期待されます。
それではありがとうございました。
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