「ひるおび」の司会者として長年愛され続けている恵俊彰さん。
お笑いコンビ「ホンジャマカ」のツッコミ担当としても有名ですが、実は彼の歩んできた道のりには数々の苦労と挫折、そして諦めない心があったのです。
今回は、恵俊彰さんの出身地から生い立ち、そしてブレイクまでの知られざるエピソードを詳しくご紹介します。
果たして、恵俊彰さんはどのような道を歩んできたのでしょうか。
最後まで楽しみに読んでください。
恵俊彰の出身地はどこ?

恵俊彰さんの出身地はどこなのでしょうか?
恵俊彰さんは1964年12月21日、鹿児島県鹿児島市で生まれました。
現在60歳(2025年10月現在)を迎えた恵さんですが、いまでも時折鹿児島弁が出ることがあり、故郷への愛着の深さがうかがえます 。
引用:Wikipedia
実家は伝統工芸の老舗企業
恵さんの実家は、なんと大島紬の工場を経営する家系でした。
父親の恵知雄さんは大島紬の職人で、白く染める泥染めの「白恵泥」で特許を取得するほどの技術者だったのです。
一方、母親は京都府京都市出身で、鹿児島と京都という異なる文化的背景を持つ家庭で育ちました 。
武士の血筋を持つ恵家のルーツ
2016年にNHKの「ファミリーヒストリー」で放送された内容によると、実は恵家はかつて「萩原」という姓を名乗り、薩摩藩の武士だった家系でした。
6代前の先祖が奄美大島に渡り、萩原から恵へと姓が変わったことが判明しています 。
祖父は大島紬の職人として名工として知られ、家族を支えていたそうです。
恵俊彰の生い立ち

恵俊彰さんの生い立ちはどのようなものだったのでしょうか。
調べてみると、次のような生い立ちであることが判りました。
エリート校での学生時代
恵俊彰さんの学歴を見ると、実は非常に優秀な学生だったことがわかります:
- 鹿児島大学教育学部附属小学校
- 鹿児島市立甲南中学校
- 鹿児島県立甲南高等学校
これらの学校は鹿児島県内でも有数の進学校として知られており、恵さんが学業においても優秀だったことがうかがえます 。
大学受験での挫折と3年間の浪人生活
しかし、高校卒業後の恵さんには大きな試練が待っていました。
早稲田大学を目指して大学受験に挑むも、3年間の浪人生活を余儀なくされたのです。
テレビへの憧れと上京への決意
恵さんがテレビの世界に憧れを抱くようになったのは、お笑い好きの姉の影響が大きかったと言われています。
高校生の頃には「池中玄太シリーズ」に感動し、「何よりテレビに出たい、一発逆転でスターになりたい」と強く思うようになっていました 。
お笑い好きの姉の影響もあって、恵は、次第にテレビに強く惹かれ始める。
引用:NEWSポストセブン
3浪の末に進学を断念
「あそこに出ていかないと人生が始まらないんだ!」という思いで東京の大学を目指した恵さんでしたが、受験は思うようにいきませんでした。
3年間の浪人生活の末、大学進学を諦めるという苦渋の決断を下したのです 。
東放学園専門学校での事務員時代
大学進学を諦めた恵さんは、東放学園専門学校で事務員として就職します。
この時期は芸能界とは無縁の生活でしたが、後にこの学校が芸能関係の専門学校だったことが、彼の運命を変える重要な転機となりました 。
恵俊彰のブレイクまでのエピソード

恵俊彰さんのブレイクまでのエピソードはあるのでしょうか。
調べてみると、とても興味深いエピソードがありました。
BIG THURSDAYオーディション合格
1986年、22歳の恵さんに転機が訪れます。
当時の渡辺プロダクションが立ち上げた若手お笑いタレントグループ「BIG THURSDAY(ビッグサースデー)」のオーディションに合格し、ついに芸能界入りを果たしたのです 。
1986年(昭和61年)、当時渡辺プロダクションが立ち上げた若手お笑いタレントグループ{BIG THURSDAY」のオーディションに合格し、芸能界に入る。
引用:Wikipedia
11人体制のホンジャマカ結成
1988年6月4日、インクスティック芝浦ファクトリーにて11人体制のホンジャマカが初ライブを開催しました。
現在のコンビとは全く異なる、大人数のコント集団としてのスタートでした。
下北沢での貧乏生活
当時の恵さんは下北沢の「鈴木荘」という家賃月3万円のアパートに住んでいました。
11人のメンバーそれぞれが厳しい生活を送る中で、夢を追いかけていたのです 。
当時は下北沢の『鈴木荘』という家賃月3万円のアパートに住んでいました。結局、家賃を10か月も滞納して追い出されるんですが、その頃、いまの妻が支えてくれたんです。
引用:NEWSポストセブン
石塚英彦とのコンビ結成
1989年、ホンジャマカのメンバーが次々と脱退していく中で、最後まで残ったのが恵俊彰さんと石塚英彦さんでした。
この2人で改めてコンビを結成し、再デビューを果たします。
興味深いことに、脱退メンバーの中には後に恵さんの妻となる松本美貴さんもいました 。
「小デブ」からの脱却
当初の恵さんは「小デブ」として売り出されており、相方の石塚さんと区別がつかないほどでした。
しかし、友人の岸谷五朗さんに太っていることを指摘されたことをきっかけに、20時以降は何も食べないなどの徹底したダイエットを実行。
20kgの減量に成功し、「痩せている方」と言われるようになりました 。
岸谷五朗のラジオでリスナーから絶大な支持
恵さんの転機となったのが、岸谷五朗さんがパーソナリティを務めるTBSラジオ『岸谷五朗の東京RADIO CLUB』での活動でした。
ここでリスナーから絶大な支持を集め、若者言葉として定着した「てゆ〜か〜」「ぶっちゃけ〜」「正直」などを使い始めた先駆けとなりました 。
MCとしての才能開花
1998年、フジテレビ『ロケットパンチ! MUSIC DELIVERY』で司会を担当したのを皮切りに、ソロでの司会業が増えていきました。
お笑い芸人からMCへの華麗な転身を遂げたのです 。
「ひるおび」での大成功
そして2009年3月から始まったTBS『ひるおび』では、総合司会として15年以上という長期間にわたって番組を支えています。
島田紳助さんからは「最下位の球団の監督をやるんやから、勝てるわけはない」と言われながらも、見事に番組を成功に導きました 。
58歳での大学院入学
2022年4月、なんと58歳で早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に入学しました。
これは『ひるおび』のコメンテーター・原晋さんからの勧めがきっかけでした。
かつて3浪して諦めた早稲田大学への想いを、30年以上の時を経て果たしたのです 。
「30年前の忘れ物を取りに行った」
恵さん自身は大学院進学について「30年前の忘れ物を取りに行かれた」と表現しており、2023年3月26日に無事修了しました。
研究テーマは「情報番組がスポーツを伝える役割」で、現在の仕事にも直結する内容でした 。
「情報番組がスポーツを伝える役割とは」ということを修士論文のテーマにしました。
引用:web Sportiva
まとめ
いかがだったでしょうか。
恵俊彰さんの人生は、まさに挫折と再起の連続でした。
鹿児島の名家に生まれながらも、大学受験で3度の挫折を味わい、事務員として働きながらも夢を諦めなかった青春時代。
11人のコント集団から2人のコンビへ、そしてお笑い芸人から司会者への華麗な転身。
特に印象的なのは、58歳になってから大学院に挑戦し、「30年前の忘れ物」を取りに行ったエピソードです。
これは単なる学歴取得ではなく、学び続ける姿勢の大切さを私たちに教えてくれています。
現在も「ひるおび」の司会として活躍する恵俊彰さんの人生は、諦めない心と継続する力の素晴らしいお手本と言えるでしょう。
鹿児島から東京へ、そして全国のお茶の間へ。恵さんの温かい人柄と真摯な姿勢は、今後も多くの人々に愛され続けることでしょう。
それではありがとうございました。
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