映画『シン・ウルトラマン』の主演や、数々の話題作に出演し、今や日本を代表する俳優の一人となった斎藤工さん。
その大人の色気と抜群の演技力で多くのファンを魅了していますが、彼の出身地や生い立ち、そしてブレイクまでの道のりはどのようなものだったのでしょうか。
今回は、斎藤工さんのルーツからブレイクまでの知られざるエピソードを詳しくご紹介します。
果たして、斎藤工さんはどのような道を歩んで来たのでしょうか。
最後まで楽しみに読んでください。
斎藤工の出身地はどこ?

斎藤工さんの出身地はどこなのでしょうか。
斎藤工さんは1981年8月22日に東京都港区で生まれました。
その後家族は東京都渋谷区に移り住み、さらに実家は梅が丘に移ったとのことです。
東京都港区生まれ。
家族は東京都渋谷区に在住し、
引用:Wikipedia
現在44歳となる斎藤さん(2025年9月現在)は、東京の中心部で生まれ育った生粋の東京っ子です。
港区といえば、赤坂や六本木、青山などの高級エリアを有する地域として知られており、斎藤さんの洗練された雰囲気の原点がここにあるのかもしれません。
家族構成は、父親、母親、2歳年上の姉、そして工さんの4人家族でした。
父親はかつて東北新社という映像制作・配給会社に勤務しており、退職後は世田谷区の三軒茶屋で人気レストランを経営していたそうです。
お父さんは『東北新社』という映像を制作・配給する会社に勤めていましたが、退職後は世田谷区・三軒茶屋で人気レストランを経営していたそうです。
現在、両親は大分県臼杵市に移住してカフェを営んでいるとのことです。
斎藤工の生い立ち
斎藤工さんの生い立ちはどのようなものだったのでしょうか。
調べてみると、次のような生い立ちだったことが判りました。
幼少期〜小学校時代
斎藤工さんの生い立ちは、非常にユニークで興味深いものです。
父親が東北新社に勤務していた影響で、幼少期より映画館に通うのが日常となり、映画を多く観て育ちました。
この映画に囲まれた環境が、後の俳優人生に大きな影響を与えることになります。
特に注目すべきは、小学校時代の教育環境です。
斎藤さんは最初、オーストリア出身の教育者・哲学者ルドルフ・シュタイナーの教育理念を実践する東京シュタイナーシューレ(現・シュタイナー学園初等部・中等部・高等部)に通っていました。
同級生も7人しかいない変わった学校で、個性と自主性を重んじる独特な教育を受けていました。
しかし、地元のサッカークラブに入っていたこともあり、6年生の時にサッカーの強い公立中学へ進学するために地元の公立小学校(世田谷区立山崎小学校)に転校しました。
この転校により、一般的な公立校の教育方針との違いに驚いたそうです。
中学〜高校時代の転機
中学時代(世田谷区立世田谷中学校)の斎藤さんは、俳優業に興味を持ち始め、脚本を書いたりしていました。
そして中学3年生の時にはプロダクションや大手出版社へ飛び込み、自ら売り込みを行います。
この積極性が功を奏し、モデル専門の事務所「インディゴ」の所属となり、15歳で芸能界入りを果たしました。
高校時代(日本学園高等学校)は、『TAKUMI』という名義で『MEN’S NON-NO』や『POPEYE』のモデルとして活躍していました。
雑誌のほかにもショーなどで活躍し、後にパリ・コレクションにまで出演するほどの実力を身につけていきます。
俳優デビューを待たずして高校時代から、『MEN’S NON-NO』や『POPEYE』などの紙面を飾り、のちに数々のショーやパリ・コレクションに出演するほど。
引用:Excite News
また、高校時代にノンフィクション作家・沢木耕太郎の『深夜特急』に影響され、海外に独りで出かけるようになりました。
春休みにはパリへ行き、後に香港にも行ったとのことです。
そういった旅費を稼ぐために、モデル事務所の門を叩いたという逸話も残っています。
斎藤工のブレイクまでのエピソード
斎藤工さんのブレイクまでのエピソードはあるのでしょうか?
調べてみると、とても興味深いエピソードがありました。
俳優デビューから下積み時代
2001年、20歳の斎藤工さんは、韓国映画『リメンバー・ミー』の日本リメイク版『時の香り〜リメンバー・ミー』のプロデューサーにスカウトされ、いきなり主演で俳優デビューを果たします。
しかし、デビュー作で主演を務めたにも関わらず、その後は長い下積み時代が続きました。
斎藤さんは「決して華々しいことばかりではなく」と当時を振り返っており、若手俳優で自分が俳優であると名乗れず、仕事を選べない時期が続いていました。
この苦しい時期の転機となったのが、2006年の「ラジかる!!」への出演でした。
「ラジかる5」のメンバーとして出演していた番組で、温泉で身体を張って人妻の相手をするコーナーで共演していたTIM・レッド吉田から「腐るなよ、腐らずに続けていれば絶対どうにかなるから」と励まされ続けていたといいます。
この言葉が斎藤さんの心を支え、「自分を必要としてくれるならどんな仕事でも全力でやろう」と決意を新たにしました。
着実なキャリア積み上げ
デビュー後、斎藤さんは着実にキャリアを積み上げていきます。
ドラマでは「逮捕しちゃうぞ」(2002年)、「ビー・バップ・ハイスクール」(2004年)、「海猿」(2005年)、「ゲゲゲの女房」(2010年)など人気作に多数出演。
NHK大河ドラマにも「江〜姫たちの戦国〜」(2011年)、「八重の桜」(2013年)と過去2本出演しています。
また、俳優業だけでなく多方面で才能を発揮していました。
184cmの長身を活かしたモデル業を続ける一方で、2000年代半ばには「ミュージカル テニスの王子様」にも出演を重ね、音楽CDのリリースや作詞、ジャケットイラストまで手掛けるなど、その多彩ぶりを見せていました。
運命の「昼顔」でブレイク
そして2014年、斎藤工さんの俳優人生を大きく変える作品が登場します。
それが**フジテレビ系ドラマ『昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜』**でした。
このドラマで斎藤さんは、上戸彩さん演じる主人公・紗和と既婚者同士でありながら許されぬ恋に落ちる高校教師・北野裕一郎役を演じました。
この役での熱演が女性層への人気を決定づけ、33歳にして念願の大ブレイクを果たしたのです。
斎藤は、「昼顔」はターニングポイントになった大事な作品で、
引用:Cinema Today
「昼顔」の成功について、斎藤さん自身も「作品に出会ったことでいろいろな変化があった」と語っており、この作品が彼の俳優人生における最大の転機となったことは間違いありません。
その後は、ドラマ、映画、CMなどに引っ張りだことなり、一躍人気俳優の仲間入りを果たしました。
まとめ
いかがだったでしょうか。
斎藤工さんの出身地から生い立ち、そしてブレイクまでの道のりを振り返ってみると、恵まれた環境で育ちながらも、決して順風満帆ではない苦労の連続だったことがわかります。
東京都港区に生まれ、映画に囲まれた幼少期を過ごし、ユニークな教育を受けた小学校時代。
15歳で芸能界入りを果たしながらも、デビュー後13年間という長い下積み時代を経験。
そして33歳で「昼顔」によって大ブレイクを果たすという、まさにドラマのような人生を歩んできました。
現在では俳優としてだけでなく、映画監督、YouTuber、そして映画館のない地域に映画を届ける「cinema bird」プロジェクトの主宰者としても活動するなど、多方面でその才能を発揮し続けています。
2022年には『シン・ウルトラマン』で主演を務め、新たな代表作を手に入れました。
斎藤工さんの成功の秘訣は、どんな困難な時期でも腐らずに努力を続け、与えられた仕事に全力で取り組む姿勢にあったのかもしれません。これからも彼の更なる活躍に期待が高まります。
それではありがとうございました。
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