有働由美子の生い立ちは?幼少期から大人になるまでのストーリーが明らかに!

フリーアナウンサーとして人気の有働由美子さん。

ニュースにバラエティーに引っ張りだこの有働さんですが、有働由美子さんがこれまでどんな人生を歩んでこられたか気になりますよね。

そこで今回は、有働さんの生い立ちや現在までのストーリーをリサーチしてみました。

果たして有働由美子さんはこれまでどんな人生を歩んでこられたのでしょうか。

最後までゆっくりと読んでくださいね。

目次

有働由美子の生い立ち

さて、有働由美子さんの生い立ちはどんなものだったのでしょうか。

有働由美子さんは、1969年(昭和44年)3月22日、鹿児島県日置郡伊集院町(現在の日置市)で誕生しました。

鹿児島で生まれ、幼少期を過ごした有働が、幼い頃の記憶しかない故郷を旅するもの。

引用:マイナビニュース

両親は熊本県の出身で、父親は中学校の体育教師、母親は専業主婦という家庭環境で育ちました。

3歳年下の妹がいる2人姉妹の長女として生まれた有働さんは、幼少期の4年間をこの鹿児島の地で過ごしました。

彼女の幼少期の住まいは、竹林の中の一軒家だったそうです。

鹿児島時代の思い出として、「夏になると大きいヘビのアオダイショウが家に出る」といったエピソードも語られています。

「竹林の中の一軒家に住んでいて、夏になると大きいヘビのアオダイショウが家の中を横断していた」とワイルドな生活を送っていた。

引用:livedoor news

この自然豊かな環境での経験が、後の彼女の人間性形成に影響を与えたと言われています。

4歳まで鹿児島県に住んだ後は、関西地方へ移り住み、兵庫県や大阪府で育ちました。

小学校2年生からは関西での生活が始まり、豊中市立寺内小学校へ通ったとされています。

興味深いことに、有働家では女の子であるにもかかわらず、ひな人形が飾られることがなかったそうです。

「有働家は父親がとにかく男の子が欲しいと思ったのに、娘2人」だったため、父親の教育方針も少々独特だったようです。

「有働家は父親がとにかく男の子が欲しいと思ったのに、娘2人で、今だと半虐待みたいな感じだけど、“本当に残念だ”と物心ついた後も言うような父親だった」。ひな人形はなかったが、なぜか鯉のぼりはあったという。引用:Sponichi Annex

有働由美子の幼少期から大人になるまでのストーリー

有働由美子さんは幼少期から現在までどんな人生を歩んで来られたのでしょうか。

現在までのストーリーをまとめました。

学生時代:個性的な学びの日々

有働さんの学生時代は、豊かな個性の萌芽が見られる時期でした。

中学・高校時代は剣道部に所属し、運動にも親しんでいました。

高校は大阪府立北野高等学校という進学校に通い、優秀な学生たちに囲まれて学びました。

高校時代のエピソードとして、女子全学年での5キロ競争の苦しい記憶があり、その経験から現在も長距離走は苦手だそうです。

北野高校時代の女子全学年での5キロ競争の苦しい記憶があり、走るのは苦手で…

引用:ORICON NEWS

また、当時の同級生と近年食事をした際、クラスで成績が最下位だった級友が現在は大学教授になっていることに驚いたというエピソードも語っています。

高校生のころは、チェッカーズの藤井フミヤさんに夢中になり、「受験校だったんですけど、フミヤが好きなことで頭がいっぱいになっちゃって。普通に授業中に”フミヤと私がどううまくいくか”というストーリーを書いていた」と語っています。

学生時代に推しのアイドルとの妄想小説を書いていたという素顔も明かされており、彼女の情熱的な一面が垣間見えます。

フミヤが好きなことで頭がいっぱいになっちゃって、普通に授業中にフミヤと私がどううまくいくかっていう小説を書いた」と明かした。

引用:日刊スポーツ

進学と就職:夢への第一歩

高校卒業後は神戸女学院大学文学部総合文化学科に進学しました。

当初は東京大学を志望していたという情報もありますが、結果的には神戸女学院大学への進学を選び、そこで学びを深めました。

大学卒業後の1991年(平成3年)、有働さんはNHKに入局します。

これが彼女の長いアナウンサーキャリアの始まりでした。

NHKでは「NHKニュースおはよう日本」「サタデースポーツ」「サンデースポーツ」「NHKニュース10」「スタジオパークからこんにちは」など数多くの番組を担当し、2001年から2003年までは「NHK紅白歌合戦」の司会も務めました。

神戸女学院大学卒業後、1991(平成3)年NHK入局。「NHKニュースおはよう日本」「サタデースポーツ」「サンデースポーツ」「NHKニュース10」「スタジオパークからこんにちは」などの番組を担当し、紅白歌合戦の司会も務める。

引用:新潮社

キャリアの発展:挑戦と成長

2007年から2010年まではニューヨーク特派員として活動し、国際的な視野を広げました。

その後NHKに戻り、看板番組のキャスターとしてキャリアを重ねていきます。

27年間NHKに勤めた後、2018年に退社。その理由について彼女は「ジャーナリストとして生きていきたい」と語っています。

また別のインタビューでは「年齢的に管理業務を提示された時に、いや、もっと現場でやりたいです」と思ったことや、「何をやるにもNHKの枠で考えてしまう自分に違和感を覚えていた」ことも退社の理由として挙げています。

年齢的に管理業務を提示された時に、いや、もっと現場でやりたいですと思ったことです。そして、もう一つは何をやるにもNHKの枠で考えてしまう自分に、違和感も覚えていたからです。

引用:Forbes Japan

NHK退社後はフリーアナウンサーとして活動を開始し、日本テレビ系の「news zero」などの番組に出演。

2024年4月からは日本テレビ系の音楽番組「with MUSIC」のMCを務めるなど、新たなステージでの活躍を続けています。

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